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なせば成る 絶対に勝つ
2013/07/10 Wed. 05:56 [edit]
東洋の魔女と言われたかつての日本女子バレーの監督大松博文の信念です。
1964(昭和39)年の東京オリンピックで金メダルを獲得した日本女子バレーボールチームが
ソ連と戦った決勝戦の映像(完全版)が発見され、
今年の初めにNHKで放映されましたが、
ハードディスクに残しておいたのを先日やっと見ました。
この番組を見て初めて知ったことがありました。
私はこの時日本の女子バレーが初めてソ連に勝って、
金メダルを獲得したとばかり思っていたのですが、事実は違いました。
実は東京オリンピックの2年前、モスクワでおこなわれた世界選手権においても
当時王者として君臨していたソ連を日本が破り、世界チャンピオンになっています。
ですから東京オリンピックは、ソ連がそのリベンジに燃えていた試合であり、
それを日本が跳ね返して再び世界チャンピオンに輝いた試合で、
しかもあの有名な『回転レシーブ』は、オリンピックで初めて披露したものではなく、
2年前の世界選手権で既に使われていた技だったのです。
東洋の魔女6人は、全員が日紡貝塚(大日本紡績貝塚工場のバレーボールチーム)の選手たちでした。
日紡貝塚は1954年に発足。大松監督の下、猛練習に明け暮れ、5年後には国内大会を完全制覇。

貝塚市ホームページより
その勢いを駆って1960年の第3回世界選手権に出場しましたが、
決勝でソ連に敗れ、準優勝という結果に終わりました。
「2位では意味がない。やるからには勝たねばならない」
大松博文の心に火がつきました。
悔しさを味わった選手たちとともに2年後の世界選手権での優勝を誓い合いました。
ソ連との戦いを通して外国人との体格や体力の差を痛感した大松監督は、
体の不利をどう補ってソ連のアタックを防ぐのか、
必死になって考えた結果生まれたのがあの『回転レシーブ』で、
世界の誰もが考えつかなかった戦術でした。
そしてそれを習得するため、世界に勝つため、常軌を逸した特訓がおこなわれたそうです。
その甲斐あって、1961年のヨーロッパ遠征ではソ連も破る22連勝という破竹の快進撃を成し遂げ、
現地のマスコミから「東洋の魔女」と呼ばれるようになりました。
そして翌年、冒頭に書きました1962年の世界選手権での優勝を果たした訳です。

貝塚市ホームページより
ここでひとつの区切りと考えていた選手たちは引退するつもりだったのですが、
偶然にも2年後のオリンピックが東京で開催と決まり、
しかもバレーボールが初めてのオリンピック種目になるということで、
世間からは金メダルへの期待が膨らみ、
やめるにやめられなくなってしまったそうです。
この2年という微妙な期間に当時の選手達は悩んだそうですが、
大松監督の「俺についてこい」というひと言で、
選手たちも「金メダルをとるためにやるしかない」と気持ちがひとつになったそうです。
こうしてオリンピックへの金メダルへとつながった訳ですが、
大松監督と選手たちの信頼関係を物語るエピソードを
当時の選手の方がインタビューで語っていました。
最後の練習を終わって食事の時に、
普段はやさしい言葉をかけてくれたこともない先生(大松監督)が
やさしく言ってくれたんですよ。
『よく頑張ってくれた。これが最後だから一生懸命やってくれよな』
いつもそんなこと言わない先生から言われたので胸が一杯で食事も喉を通らず、
先生(大松監督)の為に頑張らなくちゃならないと思いました。
この強い絆と信頼関係が半端ではない気がしました。
だからこそ金メダルも獲れたのかもしれません。

貝塚市ホームページより
もうひとつ印象に残ったのが、試合中の大松監督の様子です。
ベンチに座り静かにコート内の戦況を見守るだけで、
タイムアウトの時でも淡々と指示を出すだけです。
鬼の大松のことだから、もっと激しく激を飛ばしているようなイメージを
勝手に描いていましたからまったく正反対でした。
試合までにやるだけのことはやり尽くし、その力をそのまま出せば負けるわけがない。
そんな自信の表れだったのではないでしょうか。
セットカウント3-0、余裕の勝利と言っても過言ではない気がします。

貝塚市ホームページより
見応えのある番組でした。
1964(昭和39)年の東京オリンピックで金メダルを獲得した日本女子バレーボールチームが
ソ連と戦った決勝戦の映像(完全版)が発見され、
今年の初めにNHKで放映されましたが、
ハードディスクに残しておいたのを先日やっと見ました。
この番組を見て初めて知ったことがありました。
私はこの時日本の女子バレーが初めてソ連に勝って、
金メダルを獲得したとばかり思っていたのですが、事実は違いました。
実は東京オリンピックの2年前、モスクワでおこなわれた世界選手権においても
当時王者として君臨していたソ連を日本が破り、世界チャンピオンになっています。
ですから東京オリンピックは、ソ連がそのリベンジに燃えていた試合であり、
それを日本が跳ね返して再び世界チャンピオンに輝いた試合で、
しかもあの有名な『回転レシーブ』は、オリンピックで初めて披露したものではなく、
2年前の世界選手権で既に使われていた技だったのです。
東洋の魔女6人は、全員が日紡貝塚(大日本紡績貝塚工場のバレーボールチーム)の選手たちでした。
日紡貝塚は1954年に発足。大松監督の下、猛練習に明け暮れ、5年後には国内大会を完全制覇。

貝塚市ホームページより
その勢いを駆って1960年の第3回世界選手権に出場しましたが、
決勝でソ連に敗れ、準優勝という結果に終わりました。
「2位では意味がない。やるからには勝たねばならない」
大松博文の心に火がつきました。
悔しさを味わった選手たちとともに2年後の世界選手権での優勝を誓い合いました。
ソ連との戦いを通して外国人との体格や体力の差を痛感した大松監督は、
体の不利をどう補ってソ連のアタックを防ぐのか、
必死になって考えた結果生まれたのがあの『回転レシーブ』で、
世界の誰もが考えつかなかった戦術でした。
そしてそれを習得するため、世界に勝つため、常軌を逸した特訓がおこなわれたそうです。
その甲斐あって、1961年のヨーロッパ遠征ではソ連も破る22連勝という破竹の快進撃を成し遂げ、
現地のマスコミから「東洋の魔女」と呼ばれるようになりました。
そして翌年、冒頭に書きました1962年の世界選手権での優勝を果たした訳です。

貝塚市ホームページより
ここでひとつの区切りと考えていた選手たちは引退するつもりだったのですが、
偶然にも2年後のオリンピックが東京で開催と決まり、
しかもバレーボールが初めてのオリンピック種目になるということで、
世間からは金メダルへの期待が膨らみ、
やめるにやめられなくなってしまったそうです。
この2年という微妙な期間に当時の選手達は悩んだそうですが、
大松監督の「俺についてこい」というひと言で、
選手たちも「金メダルをとるためにやるしかない」と気持ちがひとつになったそうです。
こうしてオリンピックへの金メダルへとつながった訳ですが、
大松監督と選手たちの信頼関係を物語るエピソードを
当時の選手の方がインタビューで語っていました。
最後の練習を終わって食事の時に、
普段はやさしい言葉をかけてくれたこともない先生(大松監督)が
やさしく言ってくれたんですよ。
『よく頑張ってくれた。これが最後だから一生懸命やってくれよな』
いつもそんなこと言わない先生から言われたので胸が一杯で食事も喉を通らず、
先生(大松監督)の為に頑張らなくちゃならないと思いました。
この強い絆と信頼関係が半端ではない気がしました。
だからこそ金メダルも獲れたのかもしれません。

貝塚市ホームページより
もうひとつ印象に残ったのが、試合中の大松監督の様子です。
ベンチに座り静かにコート内の戦況を見守るだけで、
タイムアウトの時でも淡々と指示を出すだけです。
鬼の大松のことだから、もっと激しく激を飛ばしているようなイメージを
勝手に描いていましたからまったく正反対でした。
試合までにやるだけのことはやり尽くし、その力をそのまま出せば負けるわけがない。
そんな自信の表れだったのではないでしょうか。
セットカウント3-0、余裕の勝利と言っても過言ではない気がします。

貝塚市ホームページより
見応えのある番組でした。
category: 一般
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